山崎貴さんが監督・脚本・VFXを手がけられた『ゴジラ-1.0』が、第96回アカデミー賞で邦画・アジア映画史上初の視覚効果賞を受賞した。
アカデミー賞関連作では『哀れなるものたち』の記事も描いてます。青い字をクリックしてみて下さい!
幼少のころから怪獣映画が大好きで、1984年公開の『ゴジラ』以降、すべてのゴジラ映画を劇場で鑑賞してきた筆者としては、この快挙に感動を禁じ得ない。
時代設定は1945年、太平洋戦争の末期だ。 第1作目の『ゴジラ』が公開されたのは1954年だが、ゴジラ映画でそれより前の時代を舞台にするのは初の試みであり、公開前から話題になっていた。
山崎監督は『ALWAYS 三丁目の夕日』シリーズ(2005~2012)で昭和の高度成長期、『永遠の0』(2013)、『アルキメデスの対戦』(2019)で太平洋戦争、『海賊とよばれた男』(2016)で終戦〜戦後を、VFXを駆使して描いてこられた。
また『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007)では、冒頭にフルCGのゴジラを登場させ、西武園ゆうえんちでは『ゴジラ・ザ・ライド 大怪獣頂上決戦』というアトラクションの映像も手がけておられることからも、映画ファンなら誰しも、良くも悪くも山崎監督の特徴が色濃く出る作品になるのではないかと予想しただろう。
そこで今回は『ゴジラ-1.0』を分析し、日本はもとより、本作がなぜアメリカをはじめ海外で絶賛を持って受け入れられたのかを、考えてみようと思います。 しばらくおつき合いしていただけれは幸いです。 *ネタバレありなので、作品本編をご鑑賞後にお読みいただくことをお勧めします。
1、良かったところ
プロローグ
冒頭から度肝を抜かれた。
映画は神木隆之介さん演じる敷島浩一が零戦を操縦士、大戸島にある海軍の基地に不時着する場面から始まる。大戸島は『ゴジラ』(1954)に登場した、呉爾羅(ごじら)という怪物の伝承がある島と同じ名称だ。
零戦の故障を整備するためにやってきたと言う敷島。だが機体に問題は無く、青木崇高さん演じる整備兵の橘宗作たちに、特攻から逃げてきたとの疑いがかけられる。
その日の夜、島に恐竜=呉爾羅が出現し、整備兵たちを惨殺していく。
『ゴジラVSキングギドラ』(1991)で太平洋戦争中、南方のラゴス島に生息していたゴジラの前身であるゴジラザウルスを思わせるが、ゴジラザウルスは結果的に米軍から日本兵を守ったこととは対照的に、日本兵を殺す。
捕食するのではなく、ただ殺すのである。
核実験に巻き込まれて怪獣にされる前から、人間を、いや日本人を憎んでいたのか?
この時敷島は、零戦の機銃で呉爾羅を殺せたのかもしれない。 だがその姿を目前にして怖気づき、どうすることもできなかった。
そのせいで橘以外の整備兵は全員死亡した。 呉爾羅さえ現れなければ、敷島が機銃を撃ってさえいれば、生きて本国に帰れた人々だ。
以後敷島は、特攻から逃げたこと、呉爾羅を殺せなかったこと。この二つの十字架を背負って生きていくことになる。
主人公の行動原理がゴジラだという設定
本作は怪獣映画でありながらゴジラが主人公の物語ではない。 あくまで敷島の葛藤と成長のドラマになっていて、ゴジラは敷島がトラウマを乗り越えるための枷となる。
本作はあくまでも人間ドラマなのだ。
なのでゴジラが主役の「ザ・怪獣映画」を期待して鑑賞すると、ちょっと肩透かしを食らうかもしれない
この世界観に乗れるか乗れないかで、本作の評価は大きく変わるのではないか。
コロナ禍を経て
東宝製作の実写のゴジラ映画としては、前作にあたる『シン・ゴジラ』(2016)は82.5億円もの国内興収を記録し、シリーズ最大のヒットとなった。
『シン・ゴジラ』は、ゴジラ映画はもとより、VFXを使う邦画のレベルを数段引き上げたということは、映画ファンなら異論のない事実だろう。
その分次回作を製作するハードルが上がってしまい、山崎監督自身「次やる人は大変だな」と仰ったそうだ。だから、本作の完成は『シン・ゴジラ』公開から7年もかかってしまったのだろう。
その間に、人類は史上初めての共通の敵との戦いを経験することになる。
敵は怪獣でも宇宙人でもなく、ウィルスだった。
政府が役に立たないというプロットは、山崎監督によると、コロナ禍で機能不全に陥った政府への不信感が反映されているという。 これは政治家が主人公であり、ほぼ政府の関係者しか登場しない前作との差別化にもなった。
VFX
ハンパなく素晴らしかった。
特に海のシークエンスは素晴らしく、これまでにないゴジラ像を描き出していたと思う。 これなら海外でも勝負できると思えて、本当に嬉しかった。
後にYouTubeで公開されたVFXのメイキング映像を見ると、ハリウッド映画のそれに比べると明らかに少ない予算の中、知恵と人海戦術であのクオリティーの映像を生み出したと知ることができ、本編なみに感動した。
音楽
作曲は佐藤直紀さん。 『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)以降ほぼ全ての山崎貴監督作品の音楽を担当されていて、作品のイメージを音楽面で支える相性のいい作曲家さんだ。
本作では怪獣映画的な部分は、伊福部昭先生のオリジナルテーマ曲に任せ、佐藤さんは非常に透明感がありつつも硬質で魅力的なサウンドを提供しておられる。
伊福部先生のサウンドは、なんと新録されたそうだ!
後半、海神(わだつみ)作戦というゴジラ殲滅作戦が展開されるのだが、リアルなVFX映像に伊福部サウンドの入るタイミングが絶妙すぎて、素晴らしいカタルシスを体験できることをお約束する。
『ゴジラのテーマ』
🎵ダダダ、ダダダ
というお馴染みの『ゴジラのテーマ』を『ゴジラ』(1954)でのコンセプトに戻し、人類側の曲として使ったところが素晴らしかった。
この曲がゴジラの登場時にかかるようになったのは、『ゴジラVSビオランテ』(1989)からだが、伊福部サウンドが蘇ったのは嬉しかった。 が、既存のベスト盤的なアルバムから流用されたそれは、残念ながらオーケストラの編成の問題か音に厚みが足りない印象だった。
『メカゴジラの逆襲』(1975)で、人類ではなくゴジラの活躍シーンに使われたこともあったが、スローなテンポにアレンジされた物だった。 ちなみに『シン・ゴジラ』の劇中で使われたのも『メカゴジラの逆襲』バージョンだった。 ゴジラを表現する曲としてこちらバージョンを選ばれた庵野秀明総監督のセンスには、当時脱帽しました。
山崎監督の『ゴジラのテーマ』への愛も最高でした!
今作での『ゴジラのテーマ』はおそらく、1983年8月5日東京・日比谷公会堂で開催されたコンサートを収録したアルバム『伊福部昭 SF特撮映画音楽の夕べ』からの引用だ。 特撮冬の時代であった発売当時、
「このアルバムさえあれば、怪獣映画ファンはこれから先どんなに辛いことがあっても生きていける」
と評された物で、それを知った当時小5の筆者はレコード好きだった父親に力説して、LP2枚組だったこのアルバムを入手した。
山崎監督は1964年生まれということで、1972年生まれの筆者の一回り上の世代である。 ゆえに特撮好きであればあるほど、特撮映画が制作されていなかった俗にいう「特撮冬の時代」を痛切に体感したであろうと想像する。 であれば、監督はこのアルバムは相当なインパクトを持って享受されたのではないか。
なので後半が、『キングコング対ゴジラ』(1962)でのファロ島の住民が、巨神コングを鎮めるために奏でた曲に繋がるところまで踏襲されている。 日本人対ゴジラの熱いシークエンスに、ファロ島の曲が流れることに違和感を覚えられた方もおられたようだが、筆者としては、山崎監督か佐藤さんかどちらの意思なのかはわからないが、伊福部先生へのリスペクトにあふれていて、震えた。
『ゴジラの恐怖』
シーンが前後してしまうが、ゴジラが銀座に出現するシーンでは『ゴジラの恐怖』という、
🎵タ〜タタタターッタ〜
という曲をあてている。
3作目の『キングコング対ゴジラ』から使われ始めたこの曲は、本作では『モスラ対ゴジラ』(1964)のバージョンを使っている。
おそらく後者の方が音楽として完成しているからだと思うが、ただ、後半が『モスラ対ゴジラ』での、小美人が親モスラを覚醒させる時に歌う『マハラ・モスラ』へと繋がるので、前述した『キングコング対ゴジラ』でのファロ島の歌と同じ問題をはらんでいる。
ゴジラに銀座が蹂躙されていく場面で何で
🎵マ〜ハ〜ラ〜マ〜ハ〜ラ〜モスラ〜
やねん、と。
でもいいじゃないか、そこに愛があれば!
ちなみに『ゴジラVSキングギドラ』から復帰された伊福部先生は、イントロに『ゴジラの恐怖』を流してから『ゴジラのテーマ』に繋げるテーマ曲を使われ、平成VSシリーズで伊福部先生が音楽を担当された作品では一貫していた。
咆哮
スタジアムを借り切って大音量でゴジラの咆哮を流して、それを録音したとのことだが、効果絶大であった。
一般映画として成功したゴジラ映画
本作は、これまでの日本の怪獣映画とは異なる映画に仕上がった印象をもたらす。 それはVFXの見事さからくる、クオリティーの高い映像によるところが大きい。
平たく言えば、意中の相手をデートに誘っても恥ずかしくない映画に仕上がっていたということだ。 つまり、怪獣映画ではなく一般映画として成立させることに成功したのである。
確か以前、樋口真嗣監督が平成『ガメラ』三部作のどれかの対談記事で、
「女子高生に笑われたら終わりなんですよ」
といった発言をされたと記憶しているが、樋口監督による前作『シン・ゴジラ』と本作で、怪獣映画は(少なくともゴジラ映画は)完全に市民権を得たと思える。
ゴジラ観に行ってくる
と、堂々と言えなかったあの日々はもう過去となった。
そう、もう女子高生に笑われなくてすむのだ。
怪獣映画も、我々も。
モンスタームービー
監督はハリウッド映画から影響を受けたとおっしゃっているが、まさにハリウッドのモンスター映画のような仕上がりだった。 つまりあくまで主人公は人間で、モンスターの存在は主人公を成長させる仕掛けに徹するというスタイルだ。
それこそ『ジョーズ』や『エイリアン』みたいに
これからのゴジラ映画
そこは怪獣映画ファンとしては寂しいところでもあるが、一般層に波及しないと大きな予算をかけられないので、特撮映画として正しいあり方だと思う。
一方で昔ながらの特撮が好きなコアなファンがシリーズを支えているのも事実で無視するのは忍びないところである。
なので今後は、そういったコアなファン向けの小さな規模の作品(それこそ『ゴジラ・フェス』で毎年作られている短編作品)と、一般層を狙った大規模な作品に二極化していきそうな気がする。
もちろんハリウッドのシリーズも行方が気になるところ
レジェンダリー版はかつてのゴジラ映画がそうだったように、このまま怪獣アクション映画として進化を続けていくのだろうか? そうなれば日本のゴジラと棲み分けができて面白いと思う。
というのも日本の場合、もし予算が増えるとしても、VFXのクオリティーを保ったままシリーズを続けるには、怪獣登場の尺を抑えた人間中心の路線でいくしかないと思うからだ。
どうなっていくのか見守っていきたい。
2、気になったところ
監督・脚本・VFVの兼任
公式資料によると、本作は脚本の開発に相当時間をかけたそうだ。 が、演出的な意図を優先するあまりか、プロット的に整合性が取れていないところがあったように思う。
VFX畑出身の山崎監督の、弱点のような気がしてならない。
脚本執筆の際、山崎監督はライターと共作するか、原案という立場に徹してライターに依頼した方が、もっと映画の精度が上がってうるさ方の映画ファンからのツッコミを回避できるのではないか。
個人的には、以前タッグを組んでいた古沢良太さんとまた一緒に仕事をして、日本のVFX映画を引っ張っていってほしいのだが。
以下、脚本上で気になったところを挙げていく。
クロスロード作戦
核実験の影響で、恐竜がゴジラになるところが説明不足ではないか。 説明セリフの多い脚本だからそのギャップが気になる。
最近の『バットマン』や『スパイダーマン』の映画では、何度もリメイクされてきたことを踏まえてか、主人公がヒーローになる動機を、おそらく
もうみんな知ってるでしょ
的な理由で描かなくなった。
それらを参考にしているのか? それともアメリカでの公開を見据え、核実験の表現を控えめに留めたのか。 ただここが説明不足だと、ゴジラの放つ熱戦が核爆発そっくりであることや、黒い雨が降る意味が弱くなってしまう。
エンタメ映画としてドギツくならないよう配慮した結果なのか?
男女の描写
敷島と浜辺美波さん演じる大石典子は、何年も一緒に暮らしているのになぜ男女の仲にならなかったのか?
美談というより、敷島はおそらくPTSD(心的外傷後ストレス障害)に蝕まれていて、典子の好意に応えられなかったのではないか? 戦時中特攻から逃げたことと、呉爾羅を殺せなかったせいで大勢の犠牲者を出してしまったこと。 これらのトラウマのせいで、敷島はED(勃起不全、勃起障害)になっていると想像するのがリアルだと思う。 そうであれば、本作における心理描写をわかりやすくセリフで言わせる演出に対して、この問題に関しては観客に行間を読む鑑賞姿勢を要求することになってしまっている。
センシティブな問題なので、これもエンタメ映画としてドギツくならない配慮なのだろうか?
なぜ東京を目指すのか?
ゴジラが東京を目指す理由。 それが劇中で分からなくても、いいとは思う。 が、なぜ日本に、東京に来るのか?という疑問を持つ人物がいないのが不自然に感じる。
従来の怪獣映画なら、科学者の役割であった。 しかし本作の科学者である吉岡秀隆さん演じる野田健治は、ゴジラの抹殺計画は立案するが、ゴジラの謎に関しては無関心なのだ。
何か一言でいいので、ゴジラの生態の謎に言及するセリフがあれば、印象が違ったように思えるのだが……
敷島とゴジラ
今作は敷島のドラマが主軸になっているので、敷島とゴジラとの奇妙な関係性をもっと強調出来なかったか?
前述したように本作の冒頭で登場する恐竜=呉爾羅は、かつての『ゴジラVSキングギドラ』におけるゴジラザウルスを連想させる。 『ゴジラVSキングギドラ』はバブル経済の真っ只中に制作されたのだが、日本は経済成長を続け、やがて超大国となって世界を支配するという、現在では考えられない設定であった。 そこに戦後の日本経済を立て直した人物として、土屋善雄さんが演じられた新堂靖明という男が登場する。
新堂は戦時中南方ラゴス島で、米軍の攻撃からゴジラの前身となる恐竜に助けられたという過去を持っていて、今では財界の大物というキャラクターだ。 そんな男が、ゴジラと化したかつての恐竜に殺されるという、因果応報的を描いていたのが興味深かった。
明言はしていないものの、前述した「ゴジラはなぜ東京を目指すのか?」のアンサーとも感じられる。 つまり、ゴジラは新堂を殺すために東京を襲撃したのかもしれないということだ。 これくらいゴジラと敷島の関係を具体的に描いた方が、ドラマ的には濃密になったのではないか?
例えば、大戸島で敷島は呉爾羅に機銃を撃って、島から追い出す。 そのせいで呉爾羅はクロスロード作戦で核実験に巻き込まれてしまい、ゴジラになる。 だから敷島への復讐のために東京を目指す、という設定はどうだろうか?
それなら敷島の絶望は増すし、もっと必然的に絶対に乗り越えないといけない壁として、ゴジラを描くことが出来たのではないか?
これだと女子高生に笑われてしまうか???
『spacebattlesipヤマト』の雪辱戦
後半の海神(わだつみ)作戦は日本人にとって太平洋戦争の理想的なやり直しだと思うが、それは『宇宙戦艦ヤマト』(1974~)と同じ思想だといえる。 『宇宙戦艦ヤマト』は放送当時、大人にも人気があった。 筆者の父親は昭和7年生まれで戦争を知ってる世代だが、ヤマトを気に入って一緒に観ていたのを覚えてる。きっと「太平洋戦争の理想的なやり直し」という思想に共感していたのかな、と思う。
そこで残念なのが、山崎監督が以前に撮られた『spacebattlesipヤマト』(2010)が、この思想を捉えきれてなかったことだ。 『宇宙戦艦ヤマト』という日本独自のコンテンツを、監督の憧れである『スター・ウォーズ』や、当時高評価を受けていたアメリカのテレビシリーズ『GALACTICA/ギャラクティカ』などのハリウッド製SF作品に寄せてしまったように思えてならない。
この時点では、後に監督をされた『永遠の0』、『海賊とよばれた男』の原作である百田尚樹作品に触れていなかったのだろうか? そういう意味では『ゴジラ-1.0』は、明らかに百田尚樹作品の影響下にあると思える。 それが一部で賛否が分かれた要因なのかもしれない。
クライマックスの流れ1
民間の船が助けにやってくるのは胸熱な展開ではあるが、疑問も感じた。 船を繋いでいる間にゴジラは再生してしまうのでは? 一気に引き上げないと効果は無いのでは?
残してきた水島をクライマックスに登場させるのには、必要な仕掛けだと思う。 エンタメとしては最高に盛り上がるタイミングでの登場だ。 が、現実的な時間軸で考えたら、やや強引な演出だとの印象を持った。
クライマックスの流れ2
典子の生存を知らせた電報と、脱出装置の説明の回想シーンについて。
海神作戦が始まる前に典子の生存が敷島の耳に入っていたら、ラストで典子が生きていた唐突感も無くなるし、敷島が特攻で死ぬのではなく、生き残ろうとする決意に繋がったのではないか? 同時に、幻の戦闘機震電に脱出装置を付けたと、作戦前に観客にも分かる構成にした方が感情移入しやすかったように思う。
「実は◯◯でした」という後から説明する技法をシナリオ術では「後説」といって、話は面白くなるが、時間軸がずらされることで観客の感情移入を中断させると言われており、多用しない方が良いとされている。
本作ではクライマックス周辺で、「実は脱出装置付けてました」「実は典子生きてました」と、続けて「後説」の技法が用いられた。 特に後者は、設定の強引さも目立ったので、もうひと工夫してしてほしいと思ってしまう。
例えば、海神作戦が始まる前、敷島に震電の説明をする橘に
「脱出装置を取り付けた。だから必ず生きて帰ってこい」
と言わせる。 それでも特攻で死ぬ考えを曲げない敷島の前に、アキコを連れた澄子がやって来て、
「典子さんは生きてるよ!だからあんたも生きなさい!」
などと言わせ(澄子はどうやって震電のある場所を知ったのかという問題があるが、今作のリアリティラインではOKかと)、敷島に生きる希望を与える。 そうすればシンプルに、ゴジラの口に特攻する震電から敷島は脱出できるか?というサスペンスを演出できたし、観客も感情移入して応援できたのではないだろうか?
これだと女子高生に笑われてしまうのか???
ハッピーエンドではダメ?
最後に海底でゴジラの細胞が蘇るのは、お約束というか、通常兵器でゴジラが死ぬことを納得できないコアなファンへの目配せとしてもあれで良かったと思う。
だがラストシーンの病室、典子の首元の黒い痣は何なのか?
被爆した痕なのか?それなら敷島をはじめ銀座周辺にいた人はみんな被爆したことになる。
痣はうごめいていたし、ゴジラ細胞に感染したのか?
あの爆風を食らっても生きていた理屈づけかもしれないが、通常兵器でゴジラを倒すことができる世界観には飛躍しているように感じる。
そもそも主人公の努力が報われないことを予感させるエンディングは、本作のストレートな作風には合ってないと思うのだが
3、まとめ
海外で絶賛されている理由〜その1
戦争帰還兵の問題は、日本人よりも海外の観客の方が日常的な物として認識しているだろうから、主人公に共感し、作品の世界観に入っていきやすかったのではないだろうか。
外国人にとって「ハラキリ」「カミカゼ」は日本人の狂気だと思われているが、本作が受け入れられたことで「カミカゼ=特攻」に対する日本人の複雑な心情が、多少は理解されたように思う。
またアメリカ批判を避けつつ(GHQの描き方等やや強引ではあったが)、米軍による民間人居住区への激しい空襲があった歴史的事実を示すことができたことは、今の世界情勢と照らし合わせても大変意義があることだと思う。
一般的な映画ではなく、ゴジラ映画でそれを成し得たことは感激だ。
海外で絶賛されている理由〜その2
本作は海外でVFXはもとより、ドラマの部分が評価されているそうだ。 だがコアな映画ファンにとっては、VFXの素晴らしさに比べると、ドラマには物足りなさを感じてしまう側面があるかもしれない。 そこで、以下はあくまで筆者の仮説になるのだが……
もしかしたら日本のテレビドラマ的なわかりやすい脚本と演出は、外国人には新鮮に映ったのかもしれない。
期待
そう考えると本作には、エンタメ系の邦画が海外での展開を獲得するための、ヒントが隠されているのではないか。
どちらかというと海外で評価される実写の邦画は、行間を読ませるようなアート寄りの抑えた演出の作品が多いように思う(北野武監督、是枝裕和監督など)。
が、これまで海外に出す機会があまり無かっただけで、映像のクオリティーさえ確保していれば、わかりやすいエンタメ系の邦画が海外で受け入れられる可能性があるのではないか。
『ゴジラ-1.0』の海外での成功は、邦画の世界進出への突破口となるかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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